
先日の土曜日は、待ちに待った大好きな佐野直樹さんのシッディ会に参加してきました〜✨✨
佐野直樹さんとは、インド式グルノートの著者であり、経営者であり、投資家でもあり、そして悟った聖者でもある、
私がとっても大尊敬している方なんです✨

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佐野さんとは何度かZoomでお会いしていたのですが、リアルでお会いしたのははじめてでした!
わくわくしながら会場に行くと、いつもyoutubeでお見かけする佐野さんがそのまんまいらっしゃいました(当たり前)….!
わーーーー!!実在されたんですねーーーー!!というのが一番初めの印象で😂。
目があったら柔らかい笑みを向けてくださり、佐野さんの放っている周波数があたたかさそのもので、
私は幸せな気持ちで椅子に座りました^^

会場のタワー。カンカン照りで猛暑の中、ファンデーションのヨレを気にしながら到着したわけですが、
このあとのセミナーで私のファンデーションは涙の通り道がはっきりと分かるくらいになるのでした。

佐野さん✨✨2列目の真正面のお席だったので、時折1対1でお話を聞いているかのようでした。
さて、シッディ会とは何でしょうというところからお話します。
シッディ会というのは、悟った聖者の意識状態をそのまま転写してもらうことを言います。
悟った聖者が、実際にお弟子さんの頭の上に手を置いて意識の転写をするのです。
言葉では悟りの境地をどうしても伝えきれないので、ブッダも意識の転写をしていたそうです。
私は大ファンの佐野さんから実際に手を置いてもらえるなんて……!と内心ドキドキワクワクでした✨✨
シッディ会の前半は佐野さんによる講話で、私は途中から自分と重なるところがあって涙が止まらなくなりました。
あまりキョロキョロしていたら大変失礼ですので、チラッと周囲を見回すと、私以外の参加者の方も目に涙を浮かべていました。
シッディが始まる前、心から思ったことがあります。
ここに来ているみんなは、真剣に自分の苦しみと向き合っているのだと。その姿がなんとも美しいなと。
かつて私は、自分の苦しみから逃れるべく、たくさんの本を読んだり、セミナーに参加したり、自分のために投資をしてきました。
金額で言うと良い車は買えるだろう…というくらいです。
そうしていくうちに、色々な方からご相談を受けるようになりました。
年齢で言えば一桁台の学生さんから、高齢者と呼ばれる方まで、本当にたくさんの方から人生相談を受けるようになりました。
でも…….
私は本当に辛かったんです。
一方的に苦しみをぶつけられている気がして、ただただしんどかったことがありました。
私にすがりついてくる人もいました。
すがりついている人に手を差し伸べた結果、その人の苦しみが私への好意に変わって悪質なストーカーになったこともありました。
その結果、私は男性がより嫌いになりました。
そうして私は他者からの一方的な苦しみの押し付けについて、耳をふさいで拒絶したことがありました。
もうだいぶ前の話ですが、この時は本当にしんどくて、どうか本屋さんに行って解決するための本を探すか、別のメンターに行ってくださいと拒絶していました。
そして学びを深めていた道中で、こんな研究結果を知ることになります。
『勉強でも、辛いことから這い上がったことでも、努力でもなんでも、自分が成長していく過程で他者への共感能力は薄れていく。それが成長の証である。』
というものです。
この時私は他者からの悩みについて共感が薄れていた頃だったので、
「そうか私は成長したということなのか….。」
と思ったのですが、心のどこかで、共感はあったほうがいいような気がする….と思っていたのです。
それからだいぶ月日はたち、悟りについて探究の旅を進めていく中で、かつて自分が忘れていた他者への共感というものを思い出すようになりました。
そして先日のシッディ会で、他の参加者の方の様子を見て、心底美しいと思ったのです。
(ここにいるみんなが、こんなにも真剣に自分と向き合っているんだ。佐野さんのお話を聞いて自分と重ね合わせて涙する。その姿はなんて美しいんだろう。)
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そうしてシッディが始まりました。
最初はその場にいた全員で瞑想をしたのですが、目を閉じた瞬間からあらゆる想いが込み上げてきて涙がずーっと流れていました。
「涙が流れていても、鼻水が流れていても、絶対に動かないようにしてください。」
と言われていたので、乙女心ながらに恥ずかしいと思っていましたが、ただ涙が流れるのをそのままにしていました。
そして、佐野さんが私の頭に触れました。
この時、私ははっきりとしたビジョンを観たのでした。
ビジョンというのは、人生の使命であったり、未来の様子であったり、人によって様々です。
私がみたものとは、私に近い将来訪れるものでした。
あまりにも鮮明で、あまりにも美しくて、息を呑むような光景が広がっていました。
私が生まれてから一度も、想像したことがない光景がそこにはありました。
⬇️その様子は、シッディ会が終わった後にすぐ、近くのカフェで余韻に浸りながら、この感覚を忘れまいというようにiPhoneにしっかりしたためました。




私は未来の家族をみていたのでした。
あれほど「家族」というものを拒絶し、結婚にも微塵も興味がなく、どんなに地位のある男性からプロポーズをされても、
「あなたにとっての結婚や、家族ってどういう意味ですか?」
と詰問。その答えがどんなに美しかったとしても、「そんなものはただの幻想よ。」とばかりに鼻で笑い、
全てをバッサリ切り捨ててきました。
子どもも一生いらないと豪語していました。
母に対しても言っていました。
「孫の顔はないからね。」
・だってお前らが私を傷つけたのだから
・だって自分の人生は全て私のものだから
・誰に言われようが私は家庭は持たない
というような態度をとっていました。
ただ、シッディ会に参加する前の数週間で、
私はいつもの自分とは違う感覚がありました。
『なんか、子どもがいてもいいかなって思えてきた。』
身体の声がいうのです。
「子どもが欲しい。」
と。
ここでいう身体の声というのは、
誰しもが体験するであろう、
・今日はなんとしてでもカレーが食べたい気分!
・無性に辛いものが食べたい!
・何か知らないけど、甘いものがめっちゃ食べたい!!
というようなものです。
実際に身体から声が出ているわけではなく、ただ漠然と感じるものですよね。
それが私のなかで起きていたわけです。
思考はいつものように否定します。
「でも、子どもってうるさいし、汚すし、今の日本の偏った教育を受けさせたいと思えない!子どもが可哀想になるだけだよ!!あんた(なお)だって散々歪んだ教育で苦労したじゃん!!被害者なんだよあんたは!」
そんな思考が浮かんでいました。
でも、
でも、
でも……
私の肉体は、あれほど拒んだ子どもを欲している。
この時、私はただたんに身体の生理的な欲求とばかり思っていました。
本能だな、と。
人間が繁栄してきたのはこの本能があるからだ、と片付けていました。
しかし、たまに漠然と子どもがいる風景が頭の中で思い浮かんではいたのです。
その時にはすでにこれまでのような嫌悪感はなく、ただ自分の未来の選択肢の一つとして静かにみていました。
(ま、そんな未来にならないこともないか…..。)
そして迎えたシッディ会。
あまりにも鮮明な光景を目の前にして、私は言葉を失っていました。
夏の川辺で、よく日に焼けた小麦色の手で私の腕を引っ張る女の子。
「ママ、はやく!」
瞬時に、私はその子のママだったのだと思い出しました。
年齢は5歳で、子どもの名前も思い出しました。
幼い頃の私とそっくりで、じっとしていられない、いつも動き回るおてんばな女の子。
未来の旦那さんと一緒に、橋の代わりに大きな岩が川の上に連なっているところをゆっくりと、3人で手を繋いで渡ろうとしていました。
「まぶしい。」
ただただ、まぶしい。
私にとってはあまりにも眩しい光景で、でもあったかくて、そこではじめて、
私は家族が欲しかったことに気づいたのでした。
あたたかい家族が。
これまでに私が欲しいと思っていたことは、仕事での成功でした。
いつも綺麗でいること、そして仕事でも成功すること。
これだけがいつも自分が必要としていることでした。
もうずっとそうだったのですから、家族というビジョンなんて一生関係のないものだと思っていたのです。
しかしビジョンにいた未来の子どものあまりにも鮮明なシーンで、私は「愛」を知りました。
子どもに腕を引っ張られながら、彼女のその柔らかそうな髪の毛を見つめながら、
「私は今後、この子の成長過程において、叱ったり、注意したりすることで彼女に嫌われることもあるだろう。否定されたり、強い言葉で拒絶されることもあるかもしれない。衝突したり、長い間距離を置くこともあるかもしれない。いや間違いなくあるだろう。
でも、私は100%彼女を受け入れる。」
ということを静かに思っていました。
私は子どもから「愛」を教えてもらっていたのでした。
川の流れる音を聴きながら未来の記憶と同居していた私は、佐野さんの誘導とともに目をゆっくりと開けて、
「今」に戻ってきました。
先ほどまでいた真っ白なセミナールームが、また違った空間のように思えました。
涙がずっと止まらず、真正面にいた佐野さんに優しく微笑みかけられて、涙でファンデーションがえらいことになっている私は恥ずかしさでいっぱいでしたが、
本当に自分が望んでいたものの正体を知って内心驚きと、戸惑いと、嬉しさといった感情の中、それ以上に愛の感覚で満たされているのが分かりました。
会場の誰もが、涙を流していました。
私は、すごくすごく大切なことに気づいたと、噛み締めるように思いながら、佐野さんに合掌してお礼をお伝えしたのでした。
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画面の向こう側と、本の向こう側の方とこうしてリアルでお会いできたことが幸せで仕方ありません^^


「下のお名前は何ですか?」と聞いてくださり、
「なおですぅうううう🥹✨✨✨(クソデカボイス)」
なんて調子に乗り、受け取ったサイン入りの本はさらにあたたかさを増して、私の最高の宝物になりました🥹✨✨
佐野さん、本当にありがとうございます^^

佐野さんやスタッフさんたちにお礼をお伝えして、タワーの中にあったカフェに行きました。
この感覚を忘れないために、急いでiPhoneのメモ機能にこの時体験したことや気づいたことを打ち込んで、抹茶ティーラテを飲みながら、時折さざなみのように押し寄せてくる涙を拭きながら、余韻に浸っていました。
カフェではお子さん連れの方が多く、ベビーカーをひいているママさんや、お子さんを抱っこしているパパさんをお見かけしました。
いつも自分の世界の中でたまにすれ違っては、何にも思わなかったママさんやパパさんたちですが、
今から私もそうなるのだと思うと少し勇気が必要だなとも思いましたが、
あのビジョンの中でみた光景で圧倒的な愛を感じ、いつもとは違う目で彼らを見つめていました。
佐野さんにサインをしていただいた本を取り出し、SNSで書き込んだことがあります。
「私はビジョンで出会った人たちにこの本のことを伝えるであろう。でも、そのうちの1人にこの本のことを伝えるのには、10年以上先になるかもしれない。またその日まで。」
そう、ビジョンで出会った娘のことです。
「そんなの白昼夢だよ」と言われてしまえばそれまでですが、あのビジョンでどれだけの傷が癒されたのかは計り知れません。
なぜなら、私が家族を通して体験したかったことをあの子が体験していたからです。
・いつでも安心できて
・愛されていて
・楽しくて
・守られていること
・生きている意味というのは、存在することそのものであって、それ以上でもそれ以下でもないこと
そして圧倒的な、「愛」。
どんなことがあってもこの子を受け入れるという感覚。そう、愛でした。
愛に触れるとあらゆる感情が溶かされますね。
確かイスラム教徒の方で、異教徒を殺すように洗脳された方が、たくさんのキリスト教徒の方を傷つけたものの、ある日突然夢の中に現れたイエス様に、
「あなたを心から許します。大切な私の子よ。」
と言われたことで深い愛を体験し、洪水になるのではないかという勢いで涙を流しながら懺悔し、
改心し、なんとキリスト教徒にもなったという男性のお話を思い出しました。
深い愛ですよね…..。たとえそれが白昼夢であったとしても、彼は赦しという圧倒的な愛によって変わったのです。
きっと、子どもを通して本来の人間が持っている「愛」というものを思い出すのだと思います。
私はビジョンを通して自分の子どもがいる感覚をはじめて体験したわけですが、
あらためて世の中のお母さんたちの素晴らしさと、美しさがわかったような気がしました。
果たしてこのビジョンが白昼夢で終わるのか、本当に実現するのかは分かりませんが、
このブログを書き続けていく中で、新しい家族に関する報告が書けたら面白いですね^^
そしてそれと同時にたくさんの方の苦しみをとるお手伝いが出来たらな、と思います。
このブログから幸せが広がって、どんどん幸せな人が爆誕しますように^^
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